「―――っ、はぁ・・・」
一瞬、呼吸の仕方を忘れたかと思った。それほど息苦しく、そして、それほどこの空間は、気持ちが、悪い
「あ・・・ぁ・・・」
幼少のころより、母の封印によって意識の外にはじき出されていたはずのそれは、僅かな亀裂を見逃さず、その亀裂から強引に内側にと侵食してくる。
「先輩っ、大丈夫ですかっ?」
「夢華、ちゃん・・・?」
大丈夫、と言って立ち上がり夢華ちゃんへと向き直る。そしてそこに、望と美琴の姿が無いことに、ようやく気づいた。
「ふた・・・りは?」
呼吸を必死に落ち着けながら辺りを見回す。そこには異形の者たちの姿はあったが二人の姿は見えなかった。
異形の者たちでさえも、一度落ち着いてしまえば大丈夫だった。そう、それは見えなかっただけで、本当はいつもそこにあるはずのもの。幼い頃の自分はこれとちゃんと対面していたはずなのだから。
「判りません。少し眩暈がしたと思ったら、もう二人ともいなくて。」
「もしかして・・・踏み越えたのか・・・?」
母が言うには、この世界にはいたるところに”死界”と呼ばれる死者の集う場所と自分たちのいる現実の境界があるという。その境界は普通の人間にはなんてことの無いものだが、少しでも干渉する力を持つものは、超能力みたいなものに目覚めたり、いわゆる狂気に触れたりと何らかの影響を受けるらしい。
何よりも厄介なのは、それは特に目印などはなく、本当に急に”踏み越える”ことがありえるというのだ。
「望ちゃんと弓削先輩・・・何処に行ってしまったのでしょうか・・・?」
見たところ夢華ちゃんは何の影響も受けていないようだった。しきりに辺りを見回し、二人の安否を気にかけている。
[これ以 、こ に は ない]
[こ は危険 ら早く なさい]
耳に、異形の者たちの、無念を残して死んでいった人たちの、声が届く。より鮮明に、頭に響くその声は、長い封印を経て自分の瞳の力が強くなったのかと思わせるほどのものだった。
「取りあえず・・・少し戻ろう。置いてきてしまったのかも・・・しれないし。」
「はい・・・。」
そして二人して振り向いて、それと、遭遇した。
「っ―――!!」
悲鳴をあげそうになる夢華ちゃんの口を塞ぎ、強引にその悲鳴を押しとどめる。
「・・・なんて・・・酷い」
そこには、まるで最初からあったかのように一人の少女の死体が打ち捨ててあった。その顔の半分は額から顎にかけてゴッソリと抉り取られ、その体も両腕は神経を晒すほどに削げ、両足はあらぬ方向に曲がっていた。まるで、遊び飽きた人形を捨てるように、ただ無造作にその少女は捨てられていた。
「・・・ふフ」
不意に、その死体の―――魅帆と呼ばれる少女であったものの口が歪む。
「なんダ、悲鳴ヲあげてクれなイんだ」
その光景に、夢華ちゃんは気を失ったようだった。
後ろから来たものに、悲鳴をあげてはならないと、その噂は囁かれていた。それはつまり―――
「そうか、お前が―――」
それはつまり、自分の背後に、想像を絶するほどの恐怖が、待っているということなのでは無いのか。
魅帆の死体の口が歪にゆがみ、折れた足で当然のように立ち上がる。
「君達は、どれくラい楽シませてクれル?」
夢華ちゃんを左手で支え、右手にはいつのまにか柄しかない短剣が握られていた。
「ギ・・・が」
不意に背後でそんな声が響いた。
「まさか、あれしきの結界で私を隔離できると思っていたのかしら?とても可愛い考え方だわ。」
小母様はそう言って、嘲笑した。
「可愛すぎて跡形も無く消し去りたいぐらいに。」
「小母、様―――」
背後には異形のものに御符を貼り付けて悠然と立つ小母様の姿があった。その格好はいつもの仕事着―――巫女服とは少し違ったものだった。簡単にいえば袖が短く、いわゆる半袖みたいになっているだけなのだが。それだけなのに何故かいつものよりも少し動き安そうな気がする。そして、何より目を引いたのはその長い髪を纏めているゴムについた大きな鈴だった。小母様が少し体を動かせばとても綺麗な音を立てる。
「我、鹿島の名において其の穢れを祓わん、死者は闇へ、不浄は浄へ。全ての理に従い、あるべき場所へ還りなさい」
「カっ・・・」
一瞬だけ、光に包まれ、そして次の瞬間にそれは消え失せていた。
「愚かね・・・。鹿島の土地でこのようなことをするなんて。そして何より―――」
そして、私達よりも向こう側、地面に倒れる司へと視線を移して、眉をしかめた。
「その姿、とても不愉快だわ。私の息子の姿を模すなんて、本当に不愉快。」
小母様が一歩前に進むとその司の姿をしたものは後退していく。
「鹿島ァ・・・厄払イの一族・・・」
「気づかないと思っていたの?あれだけ噂を展開しておいて、これだけに派手に動いておいて、この私が―――」
相手の言葉に耳を傾けず、言葉を紡ぎ、更に一歩踏み出すと、それに合わせて空間が、周りの木々が、ざわついた。
「―――本当に、気づかないと思っていたの?」
一歩踏み出すごとに小母様が纏う雰囲気が、異質になっていく。死者を模したものが動くこの空間において尚、その雰囲気は異質だった。
「噂を媒介してしかこの世に留まれず、その噂の力を得ても直接現実に干渉すらできない。あなたは、死界へと迷い込んでしまったものの恐怖に付けこみ、その恐怖を喰らってしか存在できないのでしょう?」
「ダまレ」
「他人がいなければ自らの姿を特定することができず、それ故に他の姿を装ってしか干渉することができない。なんと弱く、なんとちっぽけで、なんと愚かなことか。」
「ダマレ・・・キサまモ鹿島とイう名ニ縛らレてイルだけの存在ノくセに」
相手の言葉に、小母様の口が、少しだけ歪んだ
「勘違いを、しないで欲しいわ。鹿島とは呪縛ではなく、”絆”。自分と、祖先とこの地域に生きる全てのものとの絆。そして、それを守るための存在が私達。あなたのような不完全な存在と、一緒にしないで欲しいわ。」
リン、と鈴が鳴る。その音はまるで鳴るだけで辺りの不浄を祓っているかのようだった。
「小母・・・様・・・?」
声がでない。小母様からでる雰囲気には先ほどのようなあからさまな威圧感は無い。しかし、未だに普段では感じることがない、体の芯が凍るような冷たさは残っていた。
「鹿島の名において、我は願う。不浄を浄へと還す退魔の風、不死者を光へと還す禊の風よ。轟々と響き、啾々と唸れ。我が元に集い、我が敵を薙ぎ、全てをそのあるべき場所へ、あるべき姿へ。」
そう言って、小母様が御符を一枚眼前に掲げる。
そして、風が、舞う。御符を中心に風が渦巻き少しずつ、風の刀身が形成されていく。
「あなたの名前は訊かないわ。あなたの存在も問わない。誰の記憶にも残らず、誰の意思にも触れられず、唯々闇へと還りなさい」
「きさマぁぁァぁああァあ」
瞬間、既に動く機関を失った死体が爆ぜた。爆散した肉片が、全て一直線に小母様へと向かっていく。しかし、それは全て小母様の眼前にある風の刀身の纏う風に押し返されていく
「空間両断 ”斬滅龍神”」
その言葉に呼応するように、風の刀身が光を放ち、360°全ての方向、に縦横無尽に刃が疾り、爆散した肉片を塵へと還していく。
「アァあぁぁァぁぁぁァああぁぁ・・・・」
「そう、還りなさい。あなたは此処にいるべきではないわ。」
光が収束し、消えた後にはまるで何事もなかったかのようにその場には何もなくなっていた。
「さて、望ちゃん?美琴ちゃん?」
「はっはいっ」
さっきまで一言も喋らなかった望が急に背筋を伸ばして敬礼をする。
「えーと、そうね。少し手伝ってもらおうかしら。」
「な、何でもしますっ」
「お手柔らかに、お願いします・・・」
さっきみたいな抑圧するような恐さは無いけど、望みたいに思わず背筋が伸びてしまう怖さを感じるのは気のせいではないはずだ。
「ふふ・・・。そう硬くならないで。とても簡単なことよ。」
そう言って、さっきまでの雰囲気が嘘みたいに悪戯をたくらむ子供のような顔で、小母様が微笑んだ。
「くっ・・・」
短剣の柄を無意識に握ったのはいいものの、こんな状況に陥ったことがないのでどう使っていいかもわからない。ましてや今は夢華ちゃんを抱えている。簡単な移動すらできそうにない。八方塞とは正にこのことか。
「退がれないなら・・・」
あまりしたくないことだが、手段を選んでいる場合じゃない。もとより選べる選択肢は殆ど無いに等しいし。夢華ちゃんを地面に横たえ、体勢を低くとり、魅帆であったものへと一気に走り寄る。
「押し通るまでっ!」
相手の眼前で体を捻り勢いに任せて蹴りを放つ。狙うは鳩尾、上手くいけば相手の行動を少しぐらい止められるはず―――
「っ―――!」
しかし、相手の体へと突き刺さった足は、突き刺さったまま冗談のように抜けない。まるで、見えない手でしっかりと掴まれている感じで、酷く気持ちが悪い。
「キミは元気ガいいけド、恐がってクれなイかラ、面白クなイ。」
その足を、相手は傷だらけの腕とは信じられないほどの力で掴み、力を篭めた。
「つ・・・ぁ」
ボキ、と何かが、折れる音がした。掴まれていた俺の足は明らかに不自然な方向へとまがっている。どれほどの、力を篭めれば掴んだだけで相手の骨を折ることができるというのか。正に異常。”視”えるだけの人間にこれと相対する方法などあるわけがない―――
「キミはいラない。面白くナい。」
そのまま相手が腕を振るとまるでゴミのように自分の体が宙に浮かぶ。軽く5メートルは浮いているだろうか。人間をこんな無茶苦茶な高さまで放り投げることが出来るなんてそのデタラメさ加減は嫌気がする。
「あぁ―――まずいな・・・」
ゴミのように舞い上がった俺から視線を気絶している夢華ちゃんへと移す相手を視界におさめながら、この高さから落ちたらひとたまりもないだろうなんて考えていて、
[仕方あるまいのぅ]
なんて声が、頭の片隅で響いた気がした。