黒く長い髪の女性が、何をするでもなく、ただ天を仰いでいた。それが自分の母親だと気づいたのは暫くしてからだった。ただ空を仰ぐ母親はまるで知らない人で、そして未知の存在だった。ただそこにいるだけで風が唸り、木々が歌う。その存在がそこにあるだけで世界が歓喜していた。
「やがて、あなたの前に が現れます。」
それは、あなたにとって喜ばしいことではないかもしれない。と、母は微笑む。それは、何故かとても寂しそうに見えた。
「でも、きっとあなたはそのことを後悔することはない。私が、そうだったから」
母との距離は結構あった。それなのにいやにはっきりと母の言葉は聞こえていた。まるで、脳に直接その言葉が響いているようだった。
「あなたを、普通の子に育てたかった。でも、どう足掻いても、あなたの中に流れる血が、あなたの奥底に刻まれた が、 を引き寄せてしまう」
俺は、その言葉に頷くことしかできなかった。頭の片隅で、これが最後になるということが分かっていたからかもしれない。そう、悟っていたのだ。この別れは必ず来るということを。死別ではない、それでも、永遠の別れ。
「だから、あなたに を渡します。いつ、どうやって使うかはあなた次第。使わずに逃げ続けてもいい。ただ、これだけは忘れないで。いつまでも逃げ続けることはできないということを。必ず選ぶときが来ます。後悔のないようにね・・・?」
一際風が強く吹いた。それはあまりに激しくて、目をつぶらざるをえなかった。
そして、次の瞬間には、母はその場から消えていて、俺は一人で生きていかなければならなくなった。
レミーシャが、自分が日光に当たっているということを理解してからが凄かった。部屋はまるで台風が来たかのように散らかされ、大学の教材が散らばったり破れたり。吸血種持ち前の超能力的なものの直撃を食らったうちの冷蔵庫は天に召され、何事かと驚いた猫が家中を走り回って更に被害は拡大した。おかげで集合住宅に住んでいる俺は上下左右ついでに斜めの家に怒られたあげく、冷蔵庫の中にはいっていた食材が全てダメになり異様な出費を迫られる状況となった。
「あぁ・・・バイトシフト増やさないとダメかな・・・。」
たった今飛んでいった諭吉さんたちを取り戻すのにどれだけの時間が必要か。
「頭痛い・・・」
大きな買い物袋と、流石に持ち帰れないので明日辺りには家に届く冷蔵庫はそれほどの出費だった。どうせだからと、少し奮発したのが悪かったか。
日も大分落ちてきて、もう夕暮れ時。いつもは閉店間際の値引きを狙う主婦でごった返している通りは今日に限って人が少ない。八百屋のおっちゃんがいつもより元気がなかったのが少し気になったが、いつも通りの夕方。どうも厄介な団体さんがきているらしい。
「あいつ・・・ちゃんと片付けてるんだろうな・・・。」
心残りといえば家においてきたあいつか。散らかしたのは私だから私が片付けると言っていたがあの様子では掃除などやったことがないのではないだろうか。
「・・・心配になってきた」
帰り道を急ぐとするか。
「まぁでも、」
取り合えず、急ぐのは先ほどから人の後ろを付いてきている失礼な連中を撒いてからにするとしよう―――
「この家、モノがなさ過ぎて逆にどこに片付けていいかわからないわ・・・。」
私がいろいろと慌てて、というよりは暴れて、ダメにしたものを買いに行ってくるとこの家の主、三條結真が買い物に出てからすぐ、私はそのことで途方にくれていた。取り合えずダメにした食材やゴミは全てまとめて袋の中に入れておいたが、散らかしたものまではどう片付けたものか分からない。そもそも、このサッパリとした家のどこにこれほどの荷物があったのだろうか。
「・・・私より収納上手だわ」
何か負けた感じがするのが悔しい。この家に住み着いている猫の全面協力の元、片付けはどうもなかなか進まない。
「ダメね。これは、結真が帰ってきたら訊きましょう。」
できないことはすっぱりと諦めて、これからのことを考えていたほうが生産的だと私の脳は決定を下す傾向にある。現に私は結真に話をしているとき改革を止めようという気持ちはなかった。いや、なかったわけではない。それでも無理だと頭が判断してしまっていた。諦めがよすぎる、とは父の言葉だったか。
でも、だからといってどうしようもない。私の力は不完全で、魔眼だって開いていない。食人種として完成しているあれに勝つ手段はないといってもいい。ないからこそ、一度敗走しているではないか。だったら、このまま逃げ続けた方が―――
「悔しくないのレミーシャ!父を、母を、目の前で殺されているというのにっ!!」
ダン、と音が響くほど強く壁を殴る。悔しくないはずがない、憎くないはずがない。目の前で虫けらのように両親を殺されたというのに、何も感情を抱かない訳がない―――
「でも、何の力もないのに―――」
どうしろというのか。
チリン、と音が響く。とても優しい鈴の音。ここの猫は、首輪に鈴などついていなかったと思うけど―――
「ぇ・・・?」
見上げた瞬間、思わず見とれた。黒い髪、深い黒色の瞳をした女性がそこに立っていた。その顔立ちには少しだが結真に似ているように思える。白、というには少し汚れたローブを着たその女性は、ただ、こっちを見ていた。
「あなたが・・・結真の・・・」
その言葉一つ一つには重みがあり、聴かなければならないという強迫観念が体の奥底から湧き上がってきていた。
「自覚なさい。あなたは―――既に手に入れたはず。」
女性はそういうと、私に10個の金属製の球を渡す。それがなんなのかを聞く前に”体が”それを理解した。
「―――」
なくしていた自分の一部をようやく取り戻したような、そんな感覚だった。
大切なものだと知っていたのに、分かっていたのに、どうして今まで、私はこれをもっていなかったのか。
「あなたも、そのためにいるのでしょう?」
にゃあ、と猫が鳴いた。女性の言葉に返事をするように、それが当たり前かのように。
「”金色の人形師”レミーシャ。息子をお願いね?」