目が真っ赤にはれている、という理由で、家に置いていかれた私は、特にやることも無く、今朝使ったみんなの湯のみでも洗っていた。料理でもすればいいじゃないか、と自分でも思うけど、こと料理に関しては・・・

「兄さんのほうが料理が上手なんだから仕方ないじゃないですか。」

このところ一番の不満はそれだ。私だって一応女なんだから、年上とはいえ男の人より料理が下手というのはなんか抵抗がある。私だって、好きで兄さんより下手な訳じゃないのだ。兄さんに運動系の部活と偽って家庭科部に入ってるのは伊達じゃない。

それでも、兄さんはいつも私より上手く料理を作るんだからしょうがないとしか言いようが無いじゃないですか。

「この差はいったいなんなのかしら・・・」

兄さんは、家に来たときはもう既に独りで料理をしていた。ひょっとして実力の差は経歴の差かしら。

「いつか絶対、追い抜いてやるんだから。」

決意を新たに、兄さんの特性メモを見ることにする。まずは盗むことから、劣っているんだからしょうがないじゃないですか・・・。

「えーと、あれ?」

いつもポケットに入れてるメモが無かった。誤解が無い様にいっておくと、兄さんのメモを盗んだ訳ではなく、そのメモのコピーなのだけれども。どこかに落としちゃったのかな・・・

昨日家庭科室で使ったからそこかもしれない。

「・・・取りに行くわけにも・・・いかないですよね・・・」

学校は家を挟んでちょうど商店街と反対側にある。取りにいっている間に兄さんが帰ってきたら、きっとお昼ご飯で酷い仕打ちにあう。

うん。それはいけない。ご飯は美味しく食べたいし、せっかく兄さんが作ってくれるというのに、そこで機嫌を損ねたくない・・・。

「ぅ・・・やることがなくなってしまいました。」

天井を仰ぐ。メールで宿題が出たか友達に聞くのもいいかもしれない。あ、でもその前に、今日休んだことを怒られるかも・・・。

「・・・ぁぅ・・・みんな容赦ないしなぁ・・・」

困った。まさか朝から号泣して欠席しました、なんていえるわけがない。いったら一生そのことで苛められそうです。兄さんの馬鹿ぁ。

「どうしよう・・・って・・・ん?」

十分近く友達にメールしようかしまいか悩んでいると、庭に面した窓からカリカリ、という音が聞こえてきた。

見てみるとそこにいたのは小柄な黒猫。その黒猫が、窓越しに私を見上げて、にゃー、っと鳴いた。

「か・・・」

思わず、声が上ずる。私を見上げながら窓を引っ掻く姿は反則的に可愛すぎる。

何のためらいもなく窓を開けて、その猫を抱き上げた。猫は抵抗する素振りすら見せずに私に抱き上げられる。もう、その様は可愛すぎて言葉も出ない。

「兄さんも拾ってきたんだから、私もひろっていいよねー」

兄さんに確認を取らず猫に聞くところが我ながら卑怯だと思うけど、兄さんはきっと文句を言わない。シャロンの件があるし、それに、シャロンの件がなくったって、きっと許してくれると思う。そういう人なのだ。

途中から家族に入ってきた兄さんは、今までの私達家族の生活を壊さないように、最初から自分をいないように扱ってくれと言わんばかりの態度で私達の家族と接していた。いや、接してはいなかった。食事だって最初はみんなと時間をずらし、自分で食材をかってきて、自分で料理をして食べていた。登校だって、同じ学校に通っているのに私よりも一時間も速く登校し、下校はいつも私よりも遅く、誰にも気づかれないように下校しているようだった。なにをするにも私達家族と時間をずらし、兄さんは、私達の生活には侵入しないようにしていた。

私も最初は、兄さんをいないものと考えていた。昨日まで赤の他人だった人を兄と呼ぶのに反発があったせいもあると思う。

そんな生活が3年も続いて、それなりにものを考えることができるようになった私は、仲良くも無い人間が家にいるのは変だと母親に抗議した。そんな私を母親は本気で叱りつけた。そのときに、その少年が、何も持っていないんだと言うことを聞かされた。

たった5歳の子供が、自分の目の前で全てを失う、というのはどれほど残酷なことなのか、今考えてみても寒気が止まらない。当時の私はそれを考えて涙が止まらなくなったのを覚えている。

兄さんはとても強かった。たった5歳で、もうなににも頼らず、自分ひとりで生きていこうと言う覚悟を決めていたのだから。でも、それは、ただの弱さでもあった。もう失う気持ちを味わいたくないから、なににも関わらなければいい、という自棄にも似た弱さ。

兄さんの弱さを―――それが例え自分の思い込みだとしても―――垣間見てしまった私は、無理矢理兄さんを私達の生活のサイクルに組み込んだ。

そのときはただ、自分がもしそうなったら寂しすぎる、という理由でしかなかった。でも、それが功を奏して兄さんは笑ってくれるようになったし、喋ってくれるようにもなった。そして、それが同時に兄さんの重荷にもなってしまった。

兄さんは、自分をすり減らしてまで私を優先するようになった。私のわがままは何でも聞いてくれたし、私が頼めばなんだってしてくれた。その優しさが、私の生活を壊してしまった負い目からきているものだと気づいたのは中学校にはいってからだった。そんなことを本人に言っても、きっとすぐに誤魔化されてしまう。ともすれば、本人は無意識にそれを行っているのかもしれない。

だから、ならばせめて、私はずっと、これから先この人を護ろうと思った。この人とずっと一緒にいて、その傷を一生をかけて癒してあげようと思った。それが、私のわがままをずっと聞いてくれた兄さんに対する最大の恩返しだと思うから―――

「いたっ・・・」

黒猫を抱きながら、思いに耽っていると、突然、右目が、疼いた。こんな・・・右目が痛くなったのはいつ以来だろうか・・・

「どうして・・・いきなり・・・」

――― 本当は気づいているのだろう? ―――

頭の中に直接響く声、親近感は無いが、嫌悪感も無い。だというのに、その言葉に、私は一瞬たじろいだ。

「なに・・・に・・・」

――― その目の異変は、お前に何を知らせるものか ―――

ただ漠然と、その声の主は腕の中の猫だということにだけ気づいていた。そして、その声の主―――黒猫が、私が封じていたものをこじ開けようとしているのにも気づいている。それでも、と理性はそれを否定した。だってそれは、二度とあってはならないことだから

「あなたは、一体なにを」

いっているのですか、と言おうとして学祭の光景が頭をよぎった。それは二度と思い出したくない景色、紅い、アカイ水溜りに倒れていたのは一体誰だったか―――

「兄さんっ」

頭より体のほうが速く動いていた。居間の壁にかかった時計を見る。兄さんがシャロンと買い物に出かけたのは1時間前、商店街まで歩いて10分もかからないのに、これは明らかに異常ではないのか。

――― 今のお前では、役に立たん。足手まといなだけだ ―――

黒猫が走っている私の後を追いながら、叱りつけるように言ってくる。

何が起こっているのかなんてわからないけど、この黒猫のいっていることは恐らく本当なのだろう。それでも、私は走ることをやめるわけにはいかない。

「でも、私は兄さんが・・・もし兄さんに何かあったらっ・・・・」

自分でも取り乱しているとわかる。それでも、私は兄さんのもとに駆けつけなくてはならないのだ。

だって、今の私にとって神苗 賢という人物は、なによりもかけがえの無い人物であり、私という世界の全てなのだから―――

――― だからこそ、俺がいる。契約をしろ人間。俺は、お前が自ら力を欲するときを待ち続けたのだ ―――

足をとめ、黒猫と向かい合う。もし、兄さんが、私が思っているような状況に置かれているとしたら、この入り組んだ住宅街をどう逃げ回っているのか見当もつかない。この黒猫は、このときのために自分がいるといった。なら、迷う必要なんて無い。

「いいわ。ちゃんと役に立つんですね?」

――― 心外だな。俺とお前の相性は最高だ。俺とお前が力をあわせれば、大抵の奇跡は起こせるぞ ―――

黒猫が吼えた。それが合図。それは、平穏な生活に別れを告げ、人外の世界に踏み込むと言う決意の咆哮でもあった。

 

 

「このっ―――」

後ろに飛び退り、相手の剣戟を交わした。

相手は確実に、剣に関しては素人だった。授業の一環で本格的な剣道を履修してるせいで、相手が何らかの型をもっているかどうかぐらいはすぐにわかる。ただ力任せに、相手の急所などには関係なく相手に当てようとだけしている剣。

ただ、そんなものでも当たれば致命傷なのは変わりない。だからと言って、力を発現させるほどの、隙があるわけでもなかった。

「よく避けますねぇ」

ある程度の距離をとったところで、いきなり相手がそんなことを口にした。

「はっ・・・生憎受け止めるものを持ってないものでね。」

その上、右手は最初の斬撃でもう動かなくなってるし、左手にはシャロンを抱えている。なんにもしようが無いと言うのが実情だった。

「敬意を表して、あなたに私のパートナー達を紹介しましょう」

そういって、優雅に、自分のコートを脱ぎ捨てた。いや、本人はいたってまじめなのだろうが、俺から見ればその一挙一動が全て変態だ。先入観て恐ろしい。

相手は、腰に無数の剣を帯刀していた。おそらく、それがあの変態のパートナーなのだろう。

「本当は、そこの狐をすぐにでもこの剣の中に加えたいのですが、まぁ、あなたが邪魔をするならそれも一興かと思いまして。」

「剣に・・・加える・・・?」

とりあえず頭に残った単語をオウム返しに訊く。それが意味ある質問である必要は無い。ただ、状況を整理できるだけに時間があればいいのだから。

慎重に、相手の挙動に注意しながら、観察する。相手は、剣だけを持っている。その形は様々だが、そのどれもが相手を切り伏せることを目的としたものであることぐらいは容易に見て取れた。

ただ、妙なことに、それらは全て、どこか歪であり、なぜか悲鳴をあげている―――

「ええ。その手の動物は、剣になるんですよ。まぁ、契約をしてないあなたには関係ないですし、あなたはここで死ぬので関係は無いのですが。」

相手は妙なことを言っている。なぜ、俺が、

「契約していないと言い切れるんだ?」

声に出して訊く。純粋な疑問でもあったし、なにより、この男は何か重大なことを知っている

「あなたの目の色を見ればわかりますよ。契約者は目の色が変わるんです。私のようにね。力あるものの象徴なのですよこの目はっ」

いい終わると同時、相手は短剣を抜き放ち、投擲してくる。しかし、それすらも素人の動作。狙いはいいのかもしれないが、避けられないほど速いものでもない。

これを最小動作でかわせば、相手との距離を十分にとることが―――

「ダメです、ご主人様っ」

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