カリカリ、と何かが扉を引っ掻く音で目が覚めた。時計を見ると深夜2時、早寝遅起という健康なんだか不健康だかなんだかわからないことを信条としている俺にとって、この時間帯に目が覚めるのはありえないことだった。
「なんだ・・・?」
その音から猫が外に出たがって、扉を引っ掻いている姿を想像する。寝る寸前まで動物が如何に可愛いかということを藍に力説されたため、そんな姿が浮かんできたのだろう。まったく、藍優先思考もここまでくればシスコン極まったりだ。
そんなことを考えてる間にも、カリカリ引っ掻く音が聞こえ続けている。本当に、猫でも迷い込んだのだろうか。
「はいはい、っと」
扉を開ける。んで、結構失念していた現実が目の前にあった。目の前には、ふよふよと空を漂う金色の尻尾。視点を少し下げればそこには前足で扉を引っ掻いた姿勢のまま硬直している狐がいた。
「・・・で?」
なんとなく訊いてみる。狐は―――まるで人語を理解しているように―――その言葉に首をかしげた。その姿はどうしてだろう、と自問しているようにも見える。
「あーそうだ。お前は家で飼うことになったから、勝手にどっかに行ったりしないようにな。」
人語を理解しているはずはないが、一応決定事項を伝えておく。とりあえず伝えておけば、意外に賢そうなので本当に留まっているかもしれない、とそんなことを考えてしまった。それはそれでありがたいことなのだが・・・。
ついでに頭を撫でる。自分でこまめに手入れをしていたように思えるほど綺麗なその狐の体毛はなんとなく撫でたくなるものだった。藍なら飛びついて抱きしめかねない。
狐はびっくりとしたように俺を見上げてきた。じっと目を見られるがそんな目で見られても俺は狐の気持ちがわかるほど器用な人間ではない。だから、その、少し困る。
「・・・なんだよ・・・」
答えに窮して、ついそんなことを口にしてしまった。その言葉を聴いたからではないだろうが、その狐はもう一度首を捻った後、9本あるうちの1本を動かした。それは動かすというよりは、まるで魔法使いが杖を振るような、そんな感じの動作だった。
「な・・・」
その動作に見とれていたせいか、その尻尾が自分に巻きついているのに気づくのが少し遅れた。このまま絞め殺されたりしたら、間抜けすぎて恨み言の一つも言えないじゃないか―――
「そ・・・その、突然すみません。」
その狐が、そんな言葉を発したのは、尻尾が巻きついて5分ぐらいたってからだった。その間、結構いろいろなことを考えていたが、唐突にそんなことをいわれて、頭の中が真っ白になってしまった。
「え、と・・・すこし、言葉と知識を学ばせてもらいました。」
「へ?」
俺の間抜けな言葉を聴いて、自分の説明が足りなかったと思ったのか、また首をかしげて一生懸命考えている。
「いや、そういうわけじゃなくて・・・」
なんでそんなことができるのか、そう聴くと、狐はもう一回考え込んだ。どうやら、狐にとってそれは当然の行動だったようだ。
数十分間狐は悩んでいたが、そもそも学ぶ相手を間違えたか、「ワタシの能力の1つです」とだけしかいえないらしかった。
そしてそれに関しては、俺も妥協すべきだと思う。なんせ九尾狐だ。特殊な力の1つや2つあってもおかしくないだろう。
だというのに、この狐はさらにとんでもないことを言ってくれた。
「そ・・・その、え・・・と、私と、契約をしてください。」
「・・・は?」
唐突のことで理解が出来なかった。いや、契約って言うのは漠然とだがわかる。しかし、狐の言わんとしていることがまったくわからない。
「えーっと・・・」
頭を抱える。なるほど、俺から知識と言葉を学んだ狐が答えに窮するのもわかる。つまるところ、俺にはとっさに反応できる機転など存在してないのだ。
「・・・契約?」
「はい。・・・ダメ、ですか?」
狐が、ふよふよさせていた尻尾を止めてこちらを見る。その瞳は、なにかものを欲しがる子供の瞳と同じで、とても澄んでいた。だから、正直、その瞳を見ると、とても断りにくいです。
「その・・・理由とかあると、凄く嬉しい。」
「理由・・・」
狐は、また首をかしげる。この狐にとってこの動作はクセと呼ばれる動作なのかもしれない。
「え・・・と・・・んーと・・・」
とても深く考え込んでいるようだ。ここまで考えられるとなんか、ちょっと悪い気がする。
「え、と・・・理由ですか・・・。その、ワタシ達は見てもらえばわかるとおり、普通にありえる生命ではありません。俗に呼ばれている妖怪と言うものだと思ってください。あ、でもでも、いろいろ妖怪話とかあると思うんですけど、あのイメージは忘れて欲しいです。ネコマタとか、イヌガミとか、その、確かに人を化かして遊んだりすることもあるんですけど、基本的にワタシ達は普通の動物となんら変わり有りません。・・・と思います。」
頑張って説明している狐と目線を合わせるためにかがむ。そうすると、狐は空中に漂わせていた尻尾を全部降ろして、一呼吸置くと、また口を開く。
「え、と、それでも、ワタシ達は、通常とは少しばかり違った力を持っているんです。それは使えば使うだけ消費されてしまって、その、補充ができないんです。」
「ん?てことはその力ってのは、生まれつき使える回数が限られてるのか?」
俺が反射的にした質問に律儀にうなずいて、それでも、と続ける
「補充する方法が無い訳ではないんです。その、それが契約なんです。えと、何故だかわからないんですが人間はそういった力を備えているみたいなんです。だから、んーと、主従関係を結んでそれにあやかったり、え、と、その、人間を食して力を補充したりします。」
シキガミとかいうのになった友人から聴いた話なんですけど、と付け足す。
「え?じゃあ、さっき倒れていたのは、もしかして・・・」
「はい。え・・・と、ワタシちょっと追われているみたいで。・・・それで、その、逃げ切るのに・・・使い切っちゃって・・・。死ぬかな、って思ったときに、その、なんか温かい水みたいなのに包まれて、生き残っちゃいました。」
えへへ。とその狐は笑ったみたいだった。どうやら、狐の言う力というのは俺の瞳と同系のものらしい。なら、さっき治療のときに使った力が、何とか狐の命を延ばしているみたいだ。
「あぁ。なるほど・・・」
だからこの狐は俺に契約を求めたのだ。
「そか、この力か。確かに俺は使っても使い切る、ということはないっぽいな。」
今はコンタクトをつけていなく、その朱色の瞳は露見している。自分でも理解できていない人外の力。確かに人間に発現しているのだから、他の動物に発現していてもまったくおかしくない。ただ、何の因果か人間だけその進化の過程で、使った力を回復させる術を手に入れたということなのだろう。
「それで俺に契約を?」
「え、と・・・その、それは、違うと思います・・・。」
言葉が尻すぼみなのはきっと、自分でも確信をもてないからだろう。おそらく、この狐はここにくる直前、俺と話すすぐ前まで゛契約゛という言葉は頭の片隅にすらなかったのかもしれないし、ともすれば、俺にあって何をするかということ自体考えてなかったのかもしれない。場を繋げるためだけに、言ってしまった言葉に近いのだろう。
「ワタシは、力を使い切ったらそのまま死のうと思っていたんです。でも、その、あなたの呼び声が聞こえたときに、この人には絶対にあわなきゃならない、と思ったんです。それで、あの、えと・・・」
「・・・呼び声・・・?」
つい、言葉を返してしまった。なんたって、自分はその呼び声とやらに覚えが無いわけだし。
「はい。きっと、あなたの力が呼んでいたのだと思います。同系の力は、お互い惹き合うらしいので・・・」
きっとワタシ達は相性がいいんです、なんて言葉を付け足してくれる。
その言葉に、少し照れながら考えた。どうやら、俺はこの目の鍛錬をするたびにこの狐をここに惹きつけていたらしい。それはよろしくない。だってそれは、死ぬつもりだったこの狐の運命を変えてしまっていたのだから。
「なら、仕方ないかな。どうせ家で飼うって決めてたんだ。契約するほか無いじゃないか。」
「ぇ・・・?」
「ほれ、するぞ契約。」
俺の言葉に対する狐の表情は実に多種多様だった。今の表情はきっと驚愕だと思う。なぜか、息を呑む気配が伝わってくるんだから、本当に俺はこの狐との相性はいいらしい。
狐は、少し間をおいて、嬉しそうに頷いた。
いつごろからだったか。妹には内緒で、あの日の事故について調べるようになった。それは別に自分だけが生き残った責任感とか、死んでいった人に対しての負い目とか、そんな立派なものではなく、自分の家族を奪っていったその事故がどんなものかをただ知りたい、という好奇心から来たものだった。あれだけの事故はもちろん、各新聞にのっていたけど、それらはまるで示し合わせたように同じことしか書いてなかった。
今になって不思議に思う。あれだけの事故が、あれだけの被害が、なぜ、爆発物を積んでいた車の交通事故なんていうもので片付けられてしまうのか。
――― なにか、隠しておかなければならない様なことがあったのではないですか ―――
それはどこの地方紙だったか。そのゴシップ誌には、他のものでは書いてないようなことが大量に書いてあった。曰く、あの事件現場には巨大な獣がいた。曰く、そこで交通事故なんて起こってはいなかった。曰く・・・
でもそれは無いと思う。だって、その場にいた俺に、そんな記憶が無い。あの現場に獣なんていなかったし、交通事故が起こったからこそ、あの事故は起こったのではないのか。
唯一その事故から生還したおれがいうのだから、それは間違いではないはずだ
――― それでも、その記憶はあくまで後から得た知識なのでしょう ―――
覚えているのは、あたり一面、まるで薙ぎ払われたように全てが失われた景色。中心から広がるようにばらばらになっていた人の体。原型を留めていたのはある程度はなれていた俺と母親、そして数人の亡骸だけ。俺以外の原形を留めていた人たちは、まるで刃物でメッタ刺しされたような・・・
――― だって、そんなのあまりにも不自然 ―――
そういえば、誰も不思議には思わなかったのか。事故の原因が爆発だというのなら何故・・・
――― 何故、それだけの人間がバラバラになっていたのですか ―――
ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリ
けたたましい目覚ましの音に目を覚ます。まだまだ眠いが、昨日の夜中に思わぬ出来事で目が覚めてしまったので仕方が無い。それに、その一因は自分にもあるんだし。
目覚し時計を止めようと手を伸ばす。
「・・・と、あれ?」
いつもの場所に目覚ましは無かった。目覚ましの場所はここ一年間変えてないから、無いのは不自然だ。
ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリ
目覚ましはまだ鳴っている。正直うるさすぎる。
「俺が悪かったぁ・・・」
頭が半分以上寝ていても、自分の言動が怪しいことは十分とわかる。そもそも謝って目覚ましが止まってくれるなら、目覚し時計なんて要らないじゃないか。
「く・・・」
音を頼りに手を伸ばす。
「わ、わ・・・」
そこには違うものがあった。眠い目をこすりながら、その方向を見て、
「は・・・?」
まだ夢を見てるのかと、本気で思った。
目の前にいたのは綺麗な金色の髪の毛に、朱色の瞳をした少女。着ている服は、箪笥の奥にしまってあった、俺がまだちっちゃいときに着ていたものだと思う。その手に持っているのは、なるほど、俺の目覚ましだ。
ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリ
「え・・・と?」
その少女は、その目覚し時計の音を消そうとして奮闘していたところ、俺に頭を捕まれたらしい。手にもっている目覚し時計と俺の顔を見比べ、少し考えた後それを俺に渡してきた。
「あ、・・・ありがと。」
寝ぼけていた頭が追い討ちをかけられ、もう見事に働いてくれません。とりあえず、目覚ましを止めてから、その少女を観察した。
「?」
少女自体はまったくここにいることを不思議に思っていないらしい。というよりも、俺の顔を見て、何で俺がそんな顔をしているのか理解が出来ないという顔だ。
「あー・・・なんだ・・・」
頭が全然動いてくれません。誰か助けてくれ・・・。
「兄さーん。起きましたかー?」
階下から、天の助けが聞こえた。とりあえず藍に今の状況を教えてもらおう。
「・・・今の状況を・・・?」
もう一度前の少女を見る。不審なところは何も無い。かなり可愛い普通の少女だ。だからこそ、この状況はまずいのではないか―――
瞬間、停止を決め込んでいた俺の頭がフル回転し始めた。今の状況を藍に見られては、この先俺の人生が危ない。
「兄さん?」
しかし、そのフル回転も、一瞬遅かったようだ。
ドアをあけて入ってきた藍は、俺と、俺の目の前で不思議そうに首を傾けている少女を見て、
「ひっく・・・えぐ・・・兄さんが・・・えぐ・・犯罪者に・・・ひぐ・・・なっちゃったよぅ」
その場にへたり込み、号泣し始めた。
俺はそのとき、この世に神なんて崇高なものはいないと、はっきり実感していた。