その日は、やけに天気がよかったのを覚えている。
天気がよかったからこそ、家族で出かけるということになったのだろう。まだ幼かった自分は、家族のみんなが揃ってどこかに行くということが、たまらなく嬉しかった。
いつも笑顔で、きっと挫折なんていう言葉とは無縁であったであろう母親、意地悪だけれどもとても優しかった兄、当たり前のように大きくて、とても強く、そして子供心に『自分はおおきくなったらお父さんみたいになるんだ』と思わせるような父親。
その頃の自分にとって家族は世界の全てだった。家族のいる場所が自分のいる場所であり、いるべき場所だった。自分にとって、母親の笑顔は何よりも嬉しいものであり、兄と遊ぶのはどの友達と遊ぶより楽しいことであり、父親にものを教えてもらうことは何よりも楽しみなことだった。つまるところ、その頃の自分は幸せだった。そこにいるだけで幸せで、そこにいれば自分の目のことで苛められてもそんな嫌なことは全部忘れて笑顔になれた。家はそんな魔法のような空間であり、自分にとっての世界だった。
けれど、それの瓦解は、あまりにも唐突だった。
聴こえたのは爆音、感じたものは母親の感触。それだけだった。気づいたときには、もうなにも無かった。自分に覆い被さった母親から抜け出てみたものは、本当に全てがなくなったと思うのに十分な光景だった。
自分は、その場所で、ただ独り、動き続ける、無様な、イキモノだった。
「あ・・・」
自分以外の人は誰も動かない。いや、動けるはずが無い。
――― だってみんな、パズルのピースのようにばらばらだったのだから ―――
何が起こったか、というのは意外とすぐに判明した。周辺の人間を派手にぶちまけたそれは、車の正面衝突、ということになっていた。車になにか、爆発するようなものが積まれていたとかなんとか。実際にはもっと上手く繕われていたその理由は、その場にいなかった人間たちを納得させるには十分だった。そもそも、傍観者でしかなかった人たちは「ひどい事故だったんだ」としか思わない。何故起こったかなんて瑣末なことに過ぎないのだから。
そして、そんなことをまともに考えられるような当事者も生き残ってなんかいなかった。その惨劇の中を生き残ったのは、幼かった俺だけ。もちろん起こった理由を考えられるほど大人なわけではなく、だからといってなにも知らない子供という訳でもなかった俺は、泣き喚くことすら出来なかった。
葬式が終わり、家に独りになって、はじめて涙を流した。誰かに見られたら恥ずかしいとかじゃなく、自分が孤独になってしまったということに、そのときになって、ようやく気づいただけだった。魔法のようだった空間には誰もいなくなってしまい、温かかった腕も、大好きだった笑顔も、目標としていた背中も、そこにはもう存在していなかった。
――― それが、幼かった俺の終わりだった ―――
それは、日常の中に迷い込んだ非日常だった。うん。絶対迷い込んできたのは向こうのほうだと思う。だって、ついさっきまで俺は日常の中にいたのだから。
「あれ?そうすると、俺が迷い込んだことになるのか?」
つい、いつもの調子で横に質問を投げかけた。しかし、今日、隣に藍はいない。別に深い意味はなく、ただ単に藍は部活でいないだけだが。
「いや、・・・わかってたけど・・・」
答えが無いのに窮して視線を元に戻した。自分の目の前には動物が転がっている。仮にも地方都市として数えられているこの市において、はっきり言ってその状況は異常だった。猫や、犬ならまだ無責任な飼い主に捨てられたのだと説明がつく。ただ、この目の前の動物はどう説明をしたものか・・・
「お前・・・狐・・・だよな?」
その動物―――狐に意識が無いこと自体見てわかった。きっと意識があったら、こんなにも接近を許さないだろう。それでもなんとなく、語りかけずにはいられなかった。なにせ、狐というものを実際に見たのはこれがはじめてなのだから。
それが、ただの狐ならまだよかった。きっと、なんも問題なかったはずだ。世の中にはワニを飼う人までいるんだから、狐を飼っている人がいても不思議に思うところではない。だが、その狐は――――
「なんで・・・尻尾がそんなにあるんだよ・・・」
見えるだけで7つ、そいつには尻尾があった。きっと体の下敷きになっているものもあるだろう。その上、体躯が大型犬に匹敵するほどでかい。つまるところ、その狐はきっと、どっかの伝承に出ているような゛九尾狐゛なんだと思う。
「どうせなら、本当に逃げてくれればよかったのに・・・」
倒れているのを発見しちゃうと、助けるしかないじゃないか――――
ゆっくりと、出来るだけ優しく、その狐を抱き上げる。見た目でわかっていたが、抱き上げてみると本当にその狐が弱っているということを実感できた。
「あぁ、もう。俺が助けるって決めたからには死ぬなよなっ」
どうしてそんな気持ちになったかはわからない。でも、独りで倒れているその狐は、俺が放って置いたらきっと、誰に看取られるでもなく、静かに、孤独のまま死んでいくのだろうと、そんな考えが頭をよぎった。というのが一番の理由なのかもしれない。
誰かに呼ばれた気がした。それは長い間待ち焦がれていた声だったように思える。だから、その声を頼りに走り続けた。ただ、その声の主に出会って、精一杯抱きしめて欲しかった。
立ち止まって、その声が一番強く残っているところで顔をあげる。見知らぬ建物が大量に建っている。マチと呼ばれる一角、人があまりいない通りだけど、それはこっちにとっても都合がいい。この建物の中には気配は無い。なら、ここで待っていれば声の主がやがて戻ってくるはずだ。
「山から降りてくるとは、何か探し物ですか?」
しかし、背後からは嫌な声が聞こえた。それは、ワタシの家族を奪っていった人間の声。振り返りもせず急いで走る。風よりはやく、光にすら溶け込むような勢いで走る。ここで捕まってしまえば、ワタシは永遠にこの声の主に合うことが出来ない。
「どうせ逃げられないというのが、まだわかりませんか・・・」
その声は落胆していた。それはきっと余裕のあらわれなんだと思う。ワタシをいつでも捕まえることが出来るぞ、という余裕のあらわれ。
だから、もっと速く、もっと、もっと―――
「ぬ・・・」
声を置き去りにして走る。そうやって、マチを走って、走り尽くして、力尽きて倒れてしまった。もう動けなくなって、ワタシもみんなみたいに捕まって、きっと、体中を変なふうにされてしまうのだろう。
だって、連れ去られた後にあったワタシの家族はワタシを捕まえようとしたし、あんなに嫌っていたあの人間のいうことを聞いていたのだから―――
「あ ? なる か 」
意識が落ちていく。視界が急速に狭くなっていく。
「お だ ?」
傍に誰かいるのかもしれない。あの人間ではないということだけはわかった。だって、とても温かい声だから。
「どうせ ら げ れ たのに 」
そこで、ワタシはこの人間に死を看取ってもらえることを、少し嬉しく感じた。
―――――― あぁ、最期は孤独じゃなかった ――――――
「あぁ、もう。俺が助けるって決めたからには死ぬなよなっ」
ワタシを抱き上げてくれた人間の腕はとても温かくて、ワタシはこのぬくもりが欲しくて、ここにきたんだ、ということを理解した。